2018年12月03日
TUBOJUNコラム
第47回 「ジャネの法則に迷える子羊」
皆さま、こんにちは!お決まりの表現ですが、師走になりました。そしてまたこの時期お決まりとして交わされるのは「この1年もあっという間でした」なんて言葉。トシを理由にするのは好きではありませんが、トシを取ると時間が経つのが早いというのは否応無く実感するところです。それは古今東西普遍的な現象のようでして、19世紀にはフランスの哲学者ポール・ジャネが「時間の心理的な長さは年齢に反比例する」と指摘し、この現象はそのままズバリ「ジャネの法則」と呼ばれています。
そんなジャネの法則を最も痛切に実感するこの時期。子供の頃は年末が近付くと「もぉ~、い~くつ、ね~る~と~♪」みたいな高揚感があったものですが・・。特に40代に入ってからは「ネンマツ」というコトバを聞くだけで、溜息とともに「もう・・」という当惑が年々強まるのです。仕事があって、家族がいて、それなりに趣味も楽しんで、これという不満はない、が、しかし・・。四十にして惑わずなんて言うが、四十にして増々惑う。嗚呼、孔子先生!これって如何に!?それとも単なる男性更年期ってヤツですか!?
なんて感じているのは私だけではないはず。「四十にして惑わず」という有名な論語の言葉に対する面白い解釈を一つ紹介しましょう。孔子様ともあろう方が出来もしない建前の教訓なんか残す訳がない、という素朴な疑問からスタートして、孔子時代の文字に戻り意味を考え直す。すると「惑」という漢字は孔子時代には存在しなかったことが分かり、本来は「或」であったのが後世に同音である「惑」に置き換えられたのでは?と推測するのです。「或」の原意は「境界によって区切ること」「心が狭い枠に囲まれること」。となると「不惑」の意味の解釈は全く異なることになりますね。以下引用。
「四十、五十くらいになると、どうも人は『自分はこんな人間だ』と限定しがちになる。『自分が出来るのはこれくらいだ』とか『自分はこんな性格だから仕方がない』とか『自分の人生はこんなもんだ』とか、狭い枠で囲って限定しがちになります。『不惑』が『不或』、つまり『区切らず』だとすると『そんな風に自分を限定しちゃあいけない。もっと自分の可能性を広げなきゃいけない』という意味になります。そうなると『四十は惑わない年齢だ』というのとは全然違う意味になるのです」
以上は安田登氏の「身体感覚で『論語』を読み直す。-古代中国の文字から」という本からの引用。漢籍の専門家ではなく能楽師である同氏。学者の固定観念ではなく、役者としての常識的な身体感覚で論語を読み解くこと。そして、論語を現在の漢字ではなく孔子の時代の古代中国文字の語源にまで遡って解釈し直すこと。その二つがこの本のテーマ。この解釈なら現代の迷える子羊、もとい中年羊にとっても納得出来るでしょう。私も凝り固まった枠を捨て去り、自らの可能性を広げるようになりたいものです。
「子曰、弟子入則孝、出則悌、謹而信。汎愛衆而親仁、行有余力、則以学文」
ということで、また来年!
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