2018年07月02日
TUBOJUNコラム
第42回 「座右の書」
皆さま、こんにちは!四十を越えてからサーフィンにハマり、本格的な夏の到来は嬉しいを通り越して逆に悩ましい季節です。というのは、いつも海が気になって仕方が無いから。週末になると今日も海に行かねば!という強迫観念。晴天なら尚更。何をしていても気もそぞろ。それが叶わぬなら心は千々に乱れる。いっそのこと台風でも来てくれれば諦めもつくのに、と。海を気にせず、心穏やかに晴耕雨読となるのです。
そんな雨の日は、いわゆる「座右の書」を手に取り、ゆっくりと味わいます。マーク・トウェイン「ちょっと面白い話」、開高健「オーパ!」、鴨長明「方丈記」、ロバート・B・パーカー「初秋」、真木蔵人「BLACK BOOK」、高野覚昇「般若心経講義」、司馬遼太郎「峠」、稲見一良「ダック・コール」、などなど色々と思い浮ぶが・・。ことあるごとの再読に足り、生涯を共にしたい座右の書は何処に?いまはそれを探しているところです。
間違い無くその中の一冊となるのは福沢諭吉の「福翁自伝」。一万円札、学問のすすめ、天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず。それらは日本人なら誰でも知っているとして、実際に福沢諭吉の書を読んだことがある人は意外に少ないのではないでしょうか。ならば間違いなくお勧めします。福沢諭吉の自叙伝といっても口述筆記による軽やかな文体に独特のユーモアが溢れ思いのほか読み易いですし。
多大なる感銘を受け、話し始めると長くなるので二つのエピソードを紹介しましょう。ともに福沢諭吉が塾生時代の話。一つは布団を敷いて寝たことは無かったと言う。勉学に疲れ果てて机に突っ伏すか、床の間の縁に頭をのせてごろりと仮眠するのみ。もう一つは蘭語を学ぶにも塾にはヅーフと呼ばれた蘭和辞典の写本が一冊あるのみ。塾生はその写本が置かれた通称「ヅーフ部屋」で争うようにページを繰ったと言う。
「実にこの上に為(し)ようのないというほどに勉強していた」
対して現代に生きる自分を振り返る。モノも情報も満ち溢れた時代。いつでもどこでも勉強が出来る安心感。インターネットにスマホ・タブレットに電子辞書。比較にならぬ恵まれた環境でありながら結局はいつまでもやらない。なのに使い捨ての「情報」は求め続ける。福翁の知識への渇望とは違う。物事の本質は溢れ返った情報の中に埋もれているのではなく、本当は自分自身の中にある。福翁ならそれを如何に洞察するのか?
「要するに真剣さが足らないだけ」
福沢諭吉の魅力はカラリと晴れ上がり生き生きと弾ける精神。一刀両断気持ち良~く喝破されたい。私のような半端者にはそれが本望です!
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